林荘
 プロローグ




案外古いアパートだった。
前に来た時はこれくらいの方が趣があっていいかも知れないと思ったが、それは住む前だから思ったことで、いざ住むとなると辛いものがありそうだ。周りには家すらなく、木と地面しかないそこにはえらく不自然で、アパートというよりペ ンションの様な印象を受ける。しかしここは観光地でもなんでもないから、そもそも建物が建っていること自体が不思議なのだ。本当に大丈夫なのだろうか。
しかしもう契約してしまった。後悔には遅すぎた。住めば都、いや、住むところ があっただけ良いのかもしれない。しかも家賃はかなり安い。――この古さと場 所の悪さだから、当たり前かもしれないが。
とにかく、と気を紛らわせ、建物に似合わず真新しいドアノブに手をかけた。

これからは、ここが僕の家だ。


ドアを開くと、広い土間で小さくなって靴を履いている女性がいた。
「あら、」
屈んでいたから若干上目遣いで僕を見つめる。ここの住民だろうか。派手な服装 の所為で目のやり場に困る。
「初めて見るわね、越してきたのかしら?」
派手な外見とは裏腹な、落ち着いてゆったりとした声だ。しかし声に微睡んでい る場合じゃない。
「あ、はい。今日越してきました、藤倉恭と申します。」
「そう。私は冬堂あやめ。よろしく。」
「よろしくお願いします。」
軽く頭を下げると、あやめは微笑んだ、様に見えた。常に微笑んでるように見え るから実際は分からない。
「遥子ちゃん…管理人さんには会ったのかしら。」
「いえ、これから挨拶に。」
「なら、」
言いながら後ろをぐるっと向き真っ直ぐと前―自分から見て真正面―を指差した 。
「あそこの廊下の右側に見える窓口を覗くといいわ。多分居るから。」
「あ、ありがとうございます。」
「じゃあね。」
「あ、は、はい。」
言うが早いか、ドアはギィ、と立て付けの悪そうな音をたてて閉まった。
随分と親切な人だ。アパートの住民とはこんな感じなのだろうか。人数も少なそ うだから住民との関係は余計大事なのだろう。しかしあの人は、それすらも癖に なっているような、そんな感じがする。この時間、つまり夕方に出掛けているあ たり、きっと水商売の人なのかもしれない。夜の蝶ならぬ、夜の菖蒲(はな)…と いうわけか。

さて、ここでぼうっとつったってる場合ではない。管理人さんに挨拶にいかなけ れば。無駄に広い土間で靴を脱ぎ、下駄箱に靴を入れた。…これではまるで旅館 だ。元はアパートではなくもっと別の物だったのだろうというのは見れば分かる 。しかし一体何だったのだろうか?
そんな考えを巡らせながら、玄関の丁度真ん中あたりに来た。正面はさっきの窓 口だ。辺りを見回さなくてもわかる。広い。変に、広い。前に来た時もそう思っ た。そういう造りなのだと割り切るのは簡単だが、何か引っ掛かる。どこかで見 たことあるような…
いやいや、今はそんな事はどうでもいい。管理人さんに挨拶して、早く部屋で落 ち着きたい。どうやら自分には、話が脱線する癖があるようだ。面倒な癖だ。
窓口は部屋の壁に丁度嵌め込みになっていて、下中央に手が入るくらいの小さな 半円が刳り貫かれている。部屋をそのまま管理人室にしているようで、奥はカー テンで仕切っていて見えない。しかし、肝心の管理人がいなかった。
「あ…あのー、今日越してきた藤倉と申しま…」
「はいはいっちょっとお待ち下さっキャアッ」
早々に言葉を遮ったと思ったらドサ、という音が同時に聞こえた気がする。…大 丈夫だろうか。
「あの…大丈夫ですか?」
「はい…大丈夫です。すみませんお騒がせして…。」
そう言いながらカーテンの下から出てきたのは、長い髪をみつあみにした女性だ った。大学生くらいだろうか。いかにも優等生というタイプに見えるが、転んだ 弾みで掛けている眼鏡が半分ズレているあたり、ドジな要素の方が強いのかもし れない。何があったんだろう、とチラと隙間から見える向こう側を見ると、…本 が沢山あった。むしろ、本しかないように見えた。雪崩でも起きたのだろうか。 足の踏み所がないくらいに本が散らばっている。
カーテンは部屋を見せないためというよりも、本をこちら側にこないように付け られているような気がする。
「えーと、藤倉……」
「『ただし』です。」
名前が正しく読まれないのは慣れている。
「あ、すみません!恭さん…ですね。私は芦野遥子といいます。ようこそ杏林荘 へいらっしゃいました。」
「これからお世話になります。」
頭を軽く下げると、遥子は困惑したような、もしくは残念そうな表情を見せた。
「えと、私…管理人じゃないんです。」
「え?」
管理人室にいたのに管理人じゃない?どういうことだろう。
「管理人は私の祖父なんです。ですが少し痴呆が進んでしまって…体も動かなく なってきて…だから私は正式には管理人代理なんです。」
代理を立てる程仕事があるわけでもないんですけどね、と苦笑いしながら遥子は 付け加えた。それを聞いてあぁ、と納得した。それであの本の山なのか。人がい る高層マンションですら管理人は暇そうなのに、ここでは仕事などそうそうない のだろう。
「じゃあ、ご案内します!道すがら色々ご説明しますね。」
いつの間にかカーテンの向こうに行っていた遥子はドアから出てきながら言った 。

「まず、ここは管理人室兼私の部屋です。何かありましたら何でも聞いて下さい 。次に、」
少し廊下の奥へ進むと、また同じようなドアがある。
「ここが、祖父の部屋です。あの、一度顔を見せてあげてもらっていいですか? 久しぶりの入居者で、とても楽しみにしていたので。」
「いいですよ。」
元々そのつもりだった。住んでいる人全員の顔を見ておきたかったからだ。
よかった、と遥子は笑顔を見せ、目の前のドアをノックした。
「おじいちゃん、新しく引っ越してきた人が挨拶にきたよ。」
「おぉ、おぉ、入ってくれ。」
その声を合図に、遥子はドアを開いた。

随分と寂しい部屋だ。率直にそう感じた。
10畳くらいの部屋の端に、少し小さい冷蔵庫とタンスと本棚がぎち、と填まって いて、真ん中にちゃぶ台とおじいさんがぽつんと、座っていた。
「おじいちゃん、こちらが、…」
「今日から越して来ました。藤倉恭です。これからよろしくお願いします。」
軽く頭を下げ、『管理人さん』と向き合った。
「おぉ、恭くんと言うのかね。私は芦野源治…『おじいちゃん』で構わんよ。」
そう言って見せた笑顔は本当に人の良さそうな『おじいちゃん』だ。
「何かあったら何でも言っておくれよ。」
「はい。お世話になります。」
軽く頭を下げると源治は満足そうに頷き、遥子に顔を向けた。
「遥子、しっかりと仕事をするんだぞ。」
「はい。おじいちゃん。…じゃあ、これから中をご案内するから。」
「おぉ、いってらっしゃい。またの、恭くん。」
「失礼します。」

さっきと同じように遥子がドアを開いて、またさっきと同じ壁が見えると思った ら、違った。
遥子がドアを開くと、丁度そこを通りすぎようとした少年と目が合った。色素が 抜けたような茶色の髪に、整った顔立ち。まるでどこかの物語り出てきそうな綺 麗な少年だ。しかし少年は、僕らをほんの一瞬見ただけで何もなかったかのよう に通りすぎようとした。
「あ…澄君!」
澄君、と呼ばれた少年は遥子の呼び掛けに歩きを止め反応した。ただ、こちらを 見ることはない。
「こちら、澄君の隣の部屋に越してきた、藤倉恭さんよ。…挨拶して?」
そう言いながら遥子はおどおどした、心配そうな目付きで僕に目配せする。
「…よろしく」
遥子の期待―なのだろうか?―に答えるように僕は澄に挨拶した。ほんの少しの 間があって、澄はこちらを向き軽く頭を下げたから、何か言葉が付け足されるの かと少なからず期待したら、特に声を出す訳でもなくそのまままた後ろを向いて 行ってしまった。
僕はそのあっけなさに少し唖然として遥子を見ると、遥子もまた、澄の反応を残 念に感じているように見えた。
「すみません…あの子は雲雀澄君といいます。あの、怒らないであげて下さい。 何というか…その、…話せないんです。」
「話せない?病気かなんかですか?」
「いえ、そういう訳では…。声は出せるのだと思います。ただ、頑なに話そうと しないのです。」
「…あぁ、」
何か精神的にトラウマを抱えているのかもしれない。ならば放っておくのがいい のだろう。
「僕の隣は彼なんですか?」
「えぇ。この少し奥の部屋です。ご案内します。」

さっき澄が向かって行った方向へ歩くと、分かれ道に出た。真っ直ぐな廊下と、 右に曲がる廊下だ。真っ直ぐな廊下には4つのドアが並び、その壁の向かいにも同 じようにドアが4つ並んでいる。ドアの右隣には名前書くのだろうか、プレートの ようなものが貼りつけてある。また、廊下は突き当たりになっていて、壁には大 きな窓が張られていた。窓から見える景色は中庭だろう。あまり手入れされてい なくてあまりいい景色ではない。右に曲がる廊下は向こう側の廊下に繋がってい るらしく、向こう側の廊下が見える。向こうまでの道程の間に、2つのドアと1つ の廊下が伸びていた。
遥子は右側の壁の、手前から2番目のドアの前に立ち、ドアを手で差した。
「こちらが恭さんのお部屋で、」
次は奥の―手前から3番目の―部屋を差した。
「ここが、澄君の部屋です。」
今度は後ろの―僕の部屋の真向かいの―部屋を差した。
「こちらは、冬堂あやめさんという方の部屋です。今はいらっしゃいませんが… 」
「あぁ、さっき玄関で会いましたよ。」
「そうですか。あの人はもう朝まで帰ってこないので、明日紹介しようと思って いたのです。タイミングが良かったですね。」
「へぇ…」
やはり水商売の人なのだろうか。

「お部屋にはトイレやシャワーは備え付けられていないので、共同になります。 あと、ガスも通ってないので、料理されたりするときも共同キッチンを使って頂 きます。場所は…」
遥子は分かれ道に戻って、さっきの右に曲がる廊下を向いた。
「手前から、お風呂場、トイレ、キッチンです。…どうしますか?今ご案内しま すか?」
遥子は僕の意見を仰ぐ。越したばかりで疲れてると察したのだろう。
「じゃあ…今日はもう休みます。」
自分自身、そこまで疲れてはいないが、早く落ち着きたいというのも本音だ。
「分かりました。荷物は業者さんに入れてもらいましたので、確認お願いします 。では、失礼します。」
そう言って遥子は笑顔を見せ、帰って行った。久しぶりに仕事ができて楽しいの だろうか。

先程言われたばかりの部屋に戻り、ドアノブに手をかける。玄関とは違って、こ このドアはまだ少し新しい。ドアを開けば、自分の部屋がある。これから、どん な生活が待っているのだろうか。
様々な想像を頭に浮かべながら、ドアをぎこちなく、開いた。




―――――プロローグ 終